(続)さて何処へ行かう風が吹く

This straight road, full of loneliness... キチガイ博士の極論・暴言・妄語――自分の「修行」用の覚え書きです。関係者以外はお引き取りください。

in, against, and, beyond...

科学と専門家

つぶやきのまとめ。


大井さんのツイート

>「専門家に頼んでは軍縮など出来ない。それで食ってる人達なんだから、喜んで軍縮などやるはずがない。幸い加藤〔友三郎〕さんは話がわかっていたから、海軍の立場からのみ論ぜず、…もう少し高いところから見ていたから、〔ワシントン軍縮会議に〕よろしいと応諾した」(新渡戸稲造)。

これに触発されて、わたしのツイート。

いろいろ一般化できそうですね。原子力ムラ改革、選挙制度改革、議会改革、官僚制度改革、医療改革、大学改革、等々。「専門家に頼んでは××など出来ない。それで食っている人達なんだから」。この視点は凄く重要だとおもう。民主主義は「専門家に頼んでは」出来ない。そこが民主主義の神髄。

(続き)その意味では、科学も、アカデミズムも、一種の「シビリアンコントロール」、つまり、直接的統制とは言わないまでも、部外者(素人、ふつうの人びと)による間接的統制が必要です。

Carnot1824さんのツイート

>「パラダイム論的に見れば、科学者・技術者というのは軍人のようなものである。そのことを公共政策決定関係者が十分認識しなければならない。」(吉岡斉)http://www.geocities.jp/nomonomoglobalwarming/Reviews/Yoshioka/Yoshioka2004.htm

これに触発されて、わたしのツイート。

吉岡さんの「イケイケ前進主義」批判ですね。わたしは、経済開発=発展と科学技術開発=発展の両方に一定の歯止めをかけないと、「敵」を圧倒するまで「軍備」を蓄積し「兵力」を増強しようとする「軍人」精神(無限の資本蓄積衝動)を払拭することができず、民主主義は実現できないと思っています。

一年前に書いた雑文から自家引用。>一般に近現代国家と科学技術専門家集団(テクノクラート)とのあいだには、中世ヨーロッパの諸国家とローマカトリック教会とのあいだの関係とかなり類似した関係がみられる。宗教に変わって科学が近現代国家の支配的なイデオロギーとなっている。

(続き)それだけではない。近現代国家は、官僚制・常備軍などの国家装置とともに、科学技術イデオロギーによって武装された学校・大学・研究機関等々の国家装置によって支えられている。まず、官僚制・常備軍などの近現代国家の暴力支配装置を維持していくために「国民的な課税システム」が構築され、税率を上げなくても税収があがるようにするために「経済システム」が構築され、その「経済システム」を支えるための「科学技術システム」が構築され、さらに「科学技術システム」やその他の国家システムを支える「国民」を創出するための広義の「教育システム」が構築される。

(続き)国家と科学(技術)を分離する(科学を完全な「私事」にする)具体的方法は、存外簡単である(逆に言うと、これまで科学がいかにどっぷりと国家に寄生してきたかがよくわかる)。金も介入政策もいらない(②があるので新自由主義の擁護ではない――ネオリベはじつは「強い国家・大きな国家」を前提している)。

①科学技術に対する、国家の財政的な支援を一切廃止する、

②知的所有権の保護を一切やめる。

以上は、例によって「極論・暴言・妄語」であるが、「本質は外していない」とおもう。あまりにラディカルな主張なので「既得権保持者」(特に大学関係者)で賛成する人は少ないとおもうが。。。http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/64986794.html

議論が一面的なのは、重々承知しております。笑

想田和弘さんのツイート

>民主主義を成熟させ、芸術を、映画を、教育を、福祉を、そして社会を活性化させるためには、とにかくみんなに暇と余裕と「場」が必要だっていう。『ヒーローを待っていても世界は変わらない』を読んで、そういう気づきがあった。これは案外大きな気づきだと思う。

これに触発されて、わたしのツイート。

(矛盾語法だが)「無限の蓄積の先」に暇と余裕と「場」が生まれるのではない。「無限の蓄積」には「先(果て)」がない。人びとを「無限の蓄積」に駆り立てるシステムこそが、暇と余裕と「場」を奪っているのだ。だから、「無限の蓄積」を「断念」することから始めなければならないのだ。

中南米諸国やギリシャやスペインでは、皮肉にも経済破局の「中から」人びとの共同性や民主主義的な創意工夫、協働の「場」が立ち上がりつつある(「破局」がいいと言っているわけではないが)。そろそろ無限の蓄積衝動と possessive individualism から脱する秋ではないか?

possessive nationalismという言葉をふと思いついた。


昨夜のツイートの補足。「軍事の論理」と「経済(国民経済、企業体)の論理」および「科学技術の論理」は存外類似している。無限の蓄積衝動と他との競争関係、そして国家との密接な結びつき等である。

(続き)明治維新以降の日本歴史の粗筋を振り返ってみれば、①体制内対抗エリートの国内的・対外的危機意識→②「維新」「革命」による新たな国家(軍・官僚制・統治機構)形成→③そのために必要な新たな財政基盤=徴税システムの確立(→民衆の抵抗)→④(徴税率強化ではなくパイをかさ上げするための)殖産興業政策→⑤経済と軍事、国内統治のためのエリート養成と科学技術振興政策→⑥国民統合のための普通教育システムの形成、メディアのコントロールという大略が見えるはずだ。

(続き)同様の事態はロシア革命後の歴史にも読み取れる、かなり普遍的な近現代国家形成のプロセスだと思われる。見えていないのか、それとも「見て見ぬふり」をしているのか、どちらかはわからないが、科学技術や大学・学校・教育システムの「本質論」的位置づけは当事者にはなかなかできないようだ。

むろん「国民の(幸福の)ための・・・(学校、教育、大学、科学技術、経済、知識人、メディア)」というイデオロギーが存在しており、かつ一定の根拠をもつことは重々承知している。しかし「・・・」は同時に狭義の「国家(統治)のため」でもある。人びとの幸福と国家統治の論理はしばしば対立する。

物事には二面性がある。その二面性をしっかり見つめなければならないということだ。

むろん、どんな人間もシステムの「外部」で生きることはできない。生きている限り、行為の面でも、思考の面でも、一面では、システムを支え続けるという「機能」を果たさざるを得ない。いきなり、まるごと、システムの外に立つことはできない。

しかし、システムの「内部」でシステムに対抗し、システムを乗りこえようと「試みる」ことはできる。ジョン・ホロウェイがうまいことを言っている。in, against, and beyond...

日本の(おそらく、日本に限らないのだろうが、わたしには全世界について語る資格はない)知識人は、inだけが異様に強く、私的個人的(もしくは、内集団的)利害に関わる事柄を除いてあまりagainstせず、beyondすることなど思いもつかないタイプが多いようだ。

システムの「中で」、システムに「対抗し」、かつ、システムを「乗り超えようと試みる」ことが大切だと思う今日この頃。


※11/1追加

MASUDA Kooitiさんのツイート

>原子力は専門家集団と利害集団の重なりが大きすぎた 。それで専門家集団の問題のたてかたが偏っていたと思う。その特殊性と隣接分野の専門家が近づかないことが強め合ったと思う。他分野の科学者が関心をもたないにもかかわらず公的科学技術資金の大きな部分が投入されたことは病的だった。

わたしのツイート。

しかしこれは専門家集団の「病理」ではなく、むしろ「平常運転」ではないだろうか。多かれ少なかれ、他の分野の専門家集団についてもあてはまるのでは?

Carnot1824さんのツイート

>原子力という専門家集団の病理なのか、隣接分野の専門家集団の病理なのか。 https://twitter.com/hirotatessai/status/263951084459028480 … https://twitter.com/masuda_ko_1/status/263822005428707328

わたしのツイート(返信)。

@Carnot_1824 吉岡さんが、彼の学問的営為の初期から(特に初期に?)主張しているように、「あらゆる」専門家集団がそもそも自らの自己増殖にストップをかけることができない一種の利害集団としての側面をもっているのでは?池田清彦氏はこれを「ガクモン不滅の法則」と皮肉っています。


Carnot1824さんのレスポンス

>@hirotatessai 自らの自己増殖にはストップをかけることができないとして、隣接分野の自己増殖にストップをかけられるかどうか?、という点はいかがでしょうか。巨額の予算が投入され、おかしな方向に進んでいるのを横目で見ながら黙認するというもの一種の病理では。

わたしの対応。

@Carnot_1824 各専門分野のセクト主義というか、「触らぬ神に祟りなし」の事なかれ主義ですね。了解です。

――「縄張り主義」は「専門主義」の同義語である。
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「専門家」についての、昨夜の短いつぶやき

科学と専門家

「専門家に食べ歩きが楽しい港町を選んでもらった」「全国各地の漁港や漁港市場、近隣の飲食店に詳しい専門家に・・・選んでもらい、おすすめの度合いで順位をつけた。選者は次の通り(敬称略、五十音順)」http://www.nikkei.com/article/DGXZZO47706260W2A021C1000000/

日経新聞が使う「専門家」という言葉の軽さに、思わず笑ってしまう。――だが、ふと立ち止まって、つらつら考えてみれば、「専門家」と呼ばれる人々の99%はこのようなたぐいの人々なのだろう。特定の争点に関し誰が「真の専門家」かを判定する「専門家判定の専門家」が必要だな。笑

いうまでもなく、上の「冗談」には続きがあって、誰が真の「専門家判定の専門家」かを判定する「専門家判定の専門家判定の専門家」が必要となる。以下、無限後退。「専門家」という言葉に、「専門家」を(仲間内で相互に)権威づけるという以外の、どのような積極的な意味があるのだろう。

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「アメリカ」という傲慢、「アメリカ」という無自覚。

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キャプチャ22

アメリゴ・ベスプッチが行ったのは南米だ。
http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/Gv-amrgo.htm



今年の5月13日から19日にかけて、カナダのモントリオールで脱成長国際会議が開催された。

題して、Degrowth in the Americas
http://montreal.degrowth.org/

本ブログでも何度か紹介したが、困ったのはこのタイトルの日本語訳である。

スピーカーがカナダとアメリカ合衆国出身の人たちが中心だったので、最初は「北米における脱成長」と意訳してみた。ところが、中南米の人たちも参加しており、かつ、重要な役割を果たしていることがわかったため(※)、途中から「アメリカ大陸における脱成長」と日本語訳を変えてみた。最終的には「複数のアメリカにおける脱成長」という、味も素っ気もない「直訳」に落ち着いた。「アメリカ」は複数であり、かつ、多種多様なのだ。



※中南米出自の「仕合わせな生」概念については、以下を参照。
>特に興味深いのは、欧米の脱成長言説と、先住民の視点、およびラテンアメリカで生まれた言説――特に「(他者と比較して)より豊かな暮らしをするのではなく、仕合わせに生きる」(live well, not better――スペイン語ではVivir Bien、ケチュア語ではSumak Kawsay、たいていはBuen Vivir)と呼ばれるモデル(このモデルは現在、ボリビアとエクアドルの政治的な枠組みの中心的要素となっている)――とのパラレルな関係である。
>あるエクアドルの経済学者によれば「これまで提案されてきた、さまざまなオルターナティヴな諸概念のなかで、《開発・発展》および《経済成長》という古い概念にとって代わる有力なオプションとなりうる理論的枠組みが《Sumak Kawsay》、すなわち《仕合わせに生きる》」なのである。
http://beyondcollapse.wordpress.com/2012/08/04/what-is-degrowth-by-janet-m-eaton-august-3-2012/


――さて、本題はここからである。わたしは、だいぶ前から「意識的に」アメリカ合衆国のことを「アメリカ」と略称しないように努力してきた(すくなくとも、ものを書くときには)。時には、わたしのこの「意識的な努力」が「無意識」(つまり、日米の世間一般の悪習)に負けて、わたし自身が「アメリカ」と言ったり、書いたりすることが、ないではないのだが、それでも、気がついたときは必ず、「合衆国」「米国」「アメリカ合衆国」と言い換えるようにしてきた。(「合衆」と「合州」の問題にはふれない。ここでは「慣例」に従っておく。またコロンブス以来の「侵略」や「土地収奪」や「大量虐殺」の問題にもふれない。)

米国人が無邪気(ナイーブ)なのは、もちろん、その文化帝国主義のなせる業である。世界中どこに行っても英語(というよりは、米語)が通じると思っているし、米国基準でものを考える。一種の「お山の大将」「井の中の蛙」と言ってもいいだろう。ただし、「お山」は地球規模であり、「井戸」も全世界を穿ち、席巻しているのだが。

アメリゴ・ベスプッチの名を取って「アメリカ」と名付けられたのは、アメリカ合衆国のことではありえない。せいぜい、アメリカ合衆国をその一部として含む、「新大陸」全体なのだ。それを米国人は、勝手に自国の名称(略称?)として独占する。他の、複数で多種多様な「アメリカ人」たちは抗議しないのだろうか。(まあ、「アメリカ人」と呼ばれたくない、という人も多いかも知れないな。特に先住民は。)

ピンと来ない日本人のために、わかりやすく説明すると、これは日本人が自国(自国民、自国文化、等々)のことをアジアと言ったり「東亜」と言ったり「大東亜」と言ったりするようなものなのだ。

「アジアではね、朝食にご飯と味噌汁と焼き海苔と納豆と梅干しを箸を使って食べるんだよ」

「アジアの首相は、野田という人なんだ」

あるいは、中国(人)に特別な感情を抱いているあなたの場合なら、中国人が

「アジアの首相は、温家宝だ」という例のほうが、実感としてわかりやすいだろうか?

これは、「アメリカの大統領選挙は11月6日が投票日なんだ」というのと同じではないだろうか?


実際は、アメリカに大統領などいないし、大統領選挙などもおこなわれない。アジアに首相などいないし、首相の選挙などもおこなわれないのと同じだ。

上のリンクを見ると、アメリカ合衆国の略称として「米」「米国」も使われいるが、「アメリカ」も相変わらず使われていることがわかる。(日本の新聞、雑誌、学術論文のたぐいを調査したら、用例の半分以上が「アメリカ」という略称を用いているのではなかろうか? 米国ではUS、USAという略称がよく使われているから、日本人が世界で一番、米国のことを「アメリカ」と「誤称」しているのではないか?)

※CiNiiで「アメリカの」で検索したら5362件がヒットした。そのほとんどが、「アメリカ合衆国の」という意味だと思われる。

日本の庶民だけでなく、知識人、文化人、学者、政治家、財界人、官僚、マスメディア、教育者、その他大勢が「アメリカ合衆国」のことを「アメリカ」と呼ぶ。

これは、アンティグア・バーブーダの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、エルサルバドルの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、カナダの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、キューバの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、グアテマラの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、グレナダの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、コスタリカの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ジャマイカの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、セントクリストファー・ネイビスの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、セントビンセント・グレナディーンの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、セントルシアの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ドミニカ共和国の人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ドミニカ国の人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、トリニダード・トバゴの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ニカラグアの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ハイチの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、パナマの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、バハマの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、バルバドスの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ベリーズの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ホンジュラスの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、メキシコの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、アルゼンチンの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ウルグアイの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、エクアドルの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ガイアナの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、コロンビアの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、スリナムの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、チリの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、パラグアイの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ブラジルの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ベネズエラの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ペルーの人たちにとって、失礼ではないのか?

これは、ボリビアの人たちにとって、失礼ではないのか?

(国別に記述しているのは、あくまで便宜的なものです。あしからず)


――今までの「無自覚」(従属意識?)から目が覚め、わたしの意見に賛同する人は、今から「アメリカ合衆国」の略称として「アメリカ」という日本語を使うのをやめよう

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本日のつぶやきから。

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Until then, we shall still lack a "democratic" theory that is the theory of civic, participatory practice of the people and for the people. (Carole Pateman, "The Civic Culture: A Philosophic Critique," in Civic Culture Revisited, 1980)


――備忘のために本日のつぶやきをまとめておきます。

午前中のつぶやき。

(1)マニュエル・カステルのCOMMUNICATION POWER(ペーパーバック版、2011年)を入手。ハードカバーは2009年の出版。いやあ、凄い本です。献辞は「私の兄弟であり、権力の理論家である、ニコス・プーランザスを偲んで」とある。

(2)「オープニング」ではスペイン独裁体制下の「情報権力」体験が語られている。「私は18歳だった。私の自由への衝動が、独裁者が生――私の生とすべての人びとの生――のまわりに構築した壁と衝突した。私はロースクールの雑誌に論文を書いた。雑誌はすぐさま発禁になった・・・」

(3)「権力はコミュニケーション以上のものであり、コミュニケーションは権力以上のものだ。しかし、権力はコミュニケーションのコントロールに依存しており、対抗権力は権力によるコミュニケーションのコントロールを打ち破ることができるかどうかにかかっている」

(4)「社会全体に到達する可能性をもつマス・コミュニケーションは、メディアビジネスと国家の政治に根ざした権力関係によって形作られ管理されている。コミュニケーション権力は、社会の構造とダイナミクスの核心部分をなしている」

(5)本書の主題は「なぜ、いかに、誰によって権力諸関係が構築され、権力がコミュニケーションプロセスの管理をつうじて行使されているか。また、どのようにすれば、社会変革を目指すアクターが、公衆のマインドに影響を及ぼすことにより、これらの権力諸関係を変えることができるか」である。

ハート&ネグリの「宣言」では、支配権力のカギとして「負債」「コミュニケーションメディア」「セキュリティ」が挙げられていた。これに「学校」と「会社」を加えれば、対抗権力がめざすべき「自己管理」の焦点がほぼ出そろう。

大文字の政治の民主主義化(議会代表制の克服)は、負債の克服、メディアの民主化、セキュリティの下からの構築、学校の民主化、経営体の自主管理などによって支えられる。もちろん、ローカルな近隣地域の民主主義(自立共生)がその基盤を成す。

こうして民主主義化の課題を列挙してみると、今更ながら「王政復古の会」の政策が、民主主義化にことごとく逆行していることが明白になるな。(道州制の主張は、たしかに中央政権に対しては分権化路線のようにみえるが、ローカルな近隣地域の自立共生という観点からみれば、明らかに集権化路線だ。)

カステルの動画 http://plaza.rakuten.co.jp/johndoe/diary/201104120000/ … ネット上でコミュニケーションパワーに言及している日本人は、(今のところ)他には見つからない。出版から三年経っているので、読んでいる人はいるのだろうけど。

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夕方のつぶやき。

大昔読んだ洋書を引っ張り出しパラパラめくっているんだけど、1974年にシカゴで開催された米国政治学会年次総会でキャロル・ペイトマンが「組織民主主義の政治理論のために」という報告をしているんだよね。Administration and Society 7 (1975): 5-26.

(続)彼女の議論は「自由民主主義理論の中心的な主張の一部のロジックは組織民主主義につながるのだが、これを正統な要素と認めると、自由民主主義理論の中心的で構造的な特徴――政治(公的)領域と私的領域の分離、もしくは自律――を掘り崩すことになる」http://aas.sagepub.com/content/7/1/5.full.pdf

(続)「組織民主主義を包摂するための理論的は変化は、自由民主主義理論の内部にとどまることはできない。自由民主主義理論の中心的な主張の一部のロジックは、参加民主主義=自己[自主]管理民主主義の理論への転化を必然化する」というものだった。http://aas.sagepub.com/content/7/1/5.full.pdf

(続)「組織民主主義」とは要するに「企業経営体の労働者による自主管理」(オートジェスチョン)のことなんだよね。ダール(※)も1970年にAfter the Revolutionの中で、経済民主主義の必要性を主張し出した。ペイトマンの論文が収められている『組織民主主義―参加と自己管理』(1976年)を見ると、

※後注:Robert Alan Dahl(1915-)は20世紀半ばの米国政治学界の中心人物の一人。1966年から1967年まで米国政治学会会長を務めた。http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_A._Dahl
ちなみに、ペイトマンも2010年から2011年にかけて米国政治学会会長を務めている。彼女は1980年以降はフェミニズムの理論家として(中期ペイトマン――日本でもフェミニズム系の人たちによって紹介されている)、21世紀に入るとベーシック・インカムの支持者として(後期ペイトマン)知られているが(後期ペイトマンも、あまり知られていないかも)、日本では参加民主主義=自主管理民主主義の理論家としてのペイトマン(初期ペイトマン)は、寄本さんの翻訳(『参加と民主主義理論』早稲田大学出版部, 1977年。原著は1970年)がある程度で、あまり知られていない。


(続)出典を挙げておく。G. David Garson他編著Organizational Democracy: Participation and Self-management(SAGE, 1976)を見ると、 http://www.amazon.co.uk/Organizational-Democracy-Participation-Self-management-Description/dp/0803905807/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1350286361&sr=8-1

(続)70年代前半の合衆国では、政治学の主流内部で「参加民主主義」や「組織民主主義」「自己管理民主主義」「労働者の自主管理」が議論されていた。この本の第三部には「米国における自主管理に向けて」というシンポジウムや「米国産業における自主管理と参加の経験」という論文が収録されている。

(続)それが、70年代の後半から80年代になると、雰囲気がガラッと変わってしまう。ネオリベもそうだけど、「規範主義」リベラリズムが支配的になる。ウォルツァーが「規範主義」はエリート主義だと批判していたが、いずれにせよ「参加民主主義」や「自主管理民主主義」の芽(議論)は下火になってしまう。

(続)2011年「から」の運動によって、もう一度アカデミズム内部で1970年代前半と同じような議論が起こってくるのではないだろうか。1970年代の議論も、1960年代の運動や実践をふまえての議論だった。歴史は繰り返すか?

(続)ペイトマンはふつう「私的領域」とされる経済領域および企業統治が実は「政治的」なものであり、民主主義的にコントロールされる必要があることを強調する。ペイトマン論文の結語。「民主主義的な投票は、(シュンペーターや主流の民主主義理論―マクファーソンのいう「多元的エリートの均衡理論」

(続)が主張するのとは違って)純粋に個人的な利益や欲望を満足させるためにお金を費やす(市場)こととは似ても似つかない。個人にとっての投票の重要性は、組織民主主義および自己管理民主主義の文脈内で投票権が行使されるとき、市民がじぶんたち自身の生活と環境を集団的、民主主義的に

(続)コントロールすることができるようになる(オートノミー)、というところにあるのだ」という。「投票」の話だけではない。投票に至るまでの討議プロセスも当然含まれる(参加民主主義の教育的機能)。現在の目から見れば、さまなざまな時代的制約や理論的限界はあるものの、40年前の議論は十分に発掘に値する。それほど反動の時代(経済と代議政治がグルになった反民主主義――ネオリベラル金融寡頭制の時代)が長く続いたのだ。


追記:当時のペイトマンら(バックラックの『デモクラティック・エリーティズムの理論』1969年※なども同様の立場だ)の議論は、文脈はまったく異なるが、ベックのサブポリティクスに関する議論を想起させる。

※アマゾンで調べたら、薄っぺらいペーパーバックが一万四千円もするぞ。
Theory of Democratic Elitism [ペーパーバック]
Peter Bachrach
http://www.amazon.co.jp/Theory-Democratic-Elitism-Peter-Bachrach/dp/0340094990/ref=sr_1_2?s=english-books&ie=UTF8&qid=1350289456&sr=1-2

A reprint of the 1967 Little, Brown book, Professor Bachrach considers the age-old question of the role of elites in a democracy. He argues that the present influence of elites in the U.S. can be offset only by the revitalization of political participation. The book also provides a historical and analytical examination of the theory of democratic elitism, as well as its soundness both as empirical and as normative theory.

Peter Bachrach is Professor of Political Science at City University of New York.

バックラックの議論の一部は、「経済的なものは政治的である。したがって、政治領域における民主主義は経済領域にまで拡張されなければならない」。

現実は、21世紀になってもなお、「政治領域における民主主義」そのものが怪しいんだけど。

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オキュパイ運動関係文献リスト(その3)

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最近入手したオキュパイ運動関係の最新文献三冊を簡単に紹介する。

(1)マリーナ・シトリン、ダリオ・アゼリニ共著『言葉を占拠する――歴史と現在との秘密のランデブー』(2012年9月18日刊)
http://www.amazon.com/Occupying-Language-Occupied-Pamphlet-Series/dp/1884519091/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1350192510&sr=8-1&keywords=Occupying+Language




RUPTURE(決裂、裂け目――想像の中で、もしくは現実の世界で、これまでのものの見方や生き方、やり方ときっぱり決別すること)、HORIZONTALIDAD(水平主義)、POPULAR POWER(ふつうの人びとのパワー)、TERRITORIO(場)、ASSEMBLIES AND ENCUENTROS(集会と出会い)、RECUPERATE(回復、取り戻すこと)、PROTAGONISM AND SOCIAL PROTAGONISM(「代理」「代表」の反対概念としての「本人」「主人公」「主体」の自己活動、社会的自己活動)、AFFECTIVE AND TRUST-BASED CONSTRUCTION(他者、および集団に対する配慮と相互信頼関係に基づく政治的アクションと組織)、AUTOGESTION(自己管理、自主管理)、AUTONOMY(自律、自治)、TODOS SOMOS(私たちはみな・・・)、A MOVEMENT OF MOVEMENTS(さまざまな運動から成る運動)、TERRITORY AND SPACE(場と空間)、MAY DAY(メーデー)、POLITICS OF WALKING AND PROCESS(歩行とプロセスの政治――共に歩きながらお互い同士問題を提起しあう、問題を提起しながら共に歩んでいく、あるいは、歩きながら共に道を創っていく、共同発見と共同創造の政治)といったキーワードを歴史的にふりかえりながら、新たな意味づけをおこなう。「言葉の力」――「私たちが過去についてどのように考え、私たちが現在どのように行動し、私たちが未来をどのように想像するかを変えることができる」言葉の力を明確にし、「公的言説」を変化させ、「言葉によって世界を動かそう」とする、きわめて興味深いパンフレット。

※マリーナ・シトリンについては、とりあえず以下の記事を参照。
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/65604063.html
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/65606770.html

※ダリオ・アゼリニについては以下を参照。
http://de.wikipedia.org/wiki/Dario_Azzellini
>ダリオ・アゼリニ(1967年生まれ)はイタリアの作家、ドキュメンタリー映画監督、芸術家、政治学者、および社会学者。


(2)論文集『ズコッティ公園を超えて――集会の自由と公共空間の占拠』(2012年10月2日刊)
http://www.amazon.com/Beyond-Zuccotti-Park-Assembly-Occupation/dp/1613320094/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1350189094&sr=1-1&keywords=Beyond+Zuccotti+Park




詳細は上記米国アマゾンのサイトの「Look Inside!」を参照。

「民主主義を強化し表現の自由を促進する上で、公共空間、ユニバーサルアクセス、公平性、設計(デザイン)が果たす重要な役割」を強調。タハリール広場からズコッティ公園に至るまでの、さまざまな抗議運動によって、著者たちは「公共空間の危機――公衆が集まれる場所はどこにあるのか? 集会と言論の自由を保障する米国憲法修正第一条を支えるためには、どのような都市計画、都市デザイン、都市政策が必要なのか?」という問題を痛感し、最重要の問題として取り組むようになったという。本書において、四十人の専門家――社会科学、計画、デザイン、市民的自由、都市問題、アートの専門家――たちが、オキュパイ運動をスプリングボード(バネ)に、「オリジナルで、多くの専門分野にわたる論文」を書いたという。オキュパイ運動が「専門家にオキュパイされた」きらいが、ないではないような気がするが。笑






まだ発売日が来ていないが、偶然手に入れることができた。こちらは(2)とは異なり、オキュパイ運動参加者とその周辺にいる人たちによる、運動内在的な分析である。マリーナ・シトリンによれば、「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」――本書は、現在のオキュパイ運動についての問題提起と省察を集めたすばらしい論集だ。「運動をいままさに創造しつつあるプロセスのなかで、そして、運動に参加し、運動の瞬間に生きながら、しかし、運動から一歩離れて(つまり、ある意味では「冷静」かつ「客観的」に)差し迫った諸問題について問いかけるというのは、めったにできることではない。本書はその重要なステップだ」という。主体と客体、主観と客観、理論と実践、歴史と構造、情念と理性・・・が交差する場での議論は、純アカデミックな議論よりも面白いし、社会的な意義も大きい。

本書の末尾でデヴィッド・グレーバーが大変興味深い議論をしている。わたしが理解したところによれば、

現代の世界で、政府にせよ個人にせよ、誰かが負債を負うということは、利息を払わなければならないということである。仮に利息が年5%(複利)だったとしよう。その利息を払うためには、毎年5%(複利)の「成長」が必要になる。5%の複利は毎年5%の指数関数的「成長」を義務づける。これは100年間で131.5倍の「成長」の義務づけとなる。仮に利息が10%(複利)だったとしよう(これはあり得ないことではない)。100年間で13780.61倍の「成長」が義務づけられる。このような雪だるま式の「成長」は果たして可能か? 資源は? 廃棄物は?

要するに、現在の借金は子孫(と地球環境)に莫大なツケを回す。おそらく返済不能なツケを。

Seen in this light, a debt cancellation might be the last chance we have to save the planet.

「このように考えれば、債務の帳消しは、私たちが地球を救うための、最後のチャンスかもしれない」

――借金は(少なくとも、利息の返済は)今すぐ踏み倒した方がよい。未来のために。わたしたちの子孫と地球のために。

※借金に抵抗するためのガイドブック
A Guide to Resisting Debt -- For Students and the Rest of Us | Alternet
http://www.alternet.org/guide-resisting-debt-students-and-rest-us


※オキュパイ運動関係文献リスト「その1」と「その2」は以下を参照。
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/65402889.html
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/65402885.html

※マイケル・ハート&アントニオ・ネグリ「宣言」翻案
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/65582284.html

※マニュエル・カステル『怒りと希望のネットワーク――インターネット時代の社会運動』(2012年9月刊)については、とりあえず以下の記事を参照。カステルについては、ただいま勉強中。
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/65576209.html
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/65580996.html
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/65579898.html
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/65596066.html
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/65596130.html

※「新しいメディアと民主主義・社会運動」関連最新研究文献については、以下を参照。
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/65424802.html

※マリーナ・シトリンの著作・論文については、ただいま勉強中。

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