in, against, and, beyond...
【 科学と専門家】
つぶやきのまとめ。
大井さんのツイート
>「専門家に頼んでは軍縮など出来ない。それで食ってる人達なんだから、喜んで軍縮などやるはずがない。幸い加藤〔友三郎〕さんは話がわかっていたから、海軍の立場からのみ論ぜず、…もう少し高いところから見ていたから、〔ワシントン軍縮会議に〕よろしいと応諾した」(新渡戸稲造)。
これに触発されて、わたしのツイート。
いろいろ一般化できそうですね。原子力ムラ改革、選挙制度改革、議会改革、官僚制度改革、医療改革、大学改革、等々。「専門家に頼んでは××など出来ない。それで食っている人達なんだから」。この視点は凄く重要だとおもう。民主主義は「専門家に頼んでは」出来ない。そこが民主主義の神髄。
(続き)その意味では、科学も、アカデミズムも、一種の「シビリアンコントロール」、つまり、直接的統制とは言わないまでも、部外者(素人、ふつうの人びと)による間接的統制が必要です。
Carnot1824さんのツイート
>「パラダイム論的に見れば、科学者・技術者というのは軍人のようなものである。そのことを公共政策決定関係者が十分認識しなければならない。」(吉岡斉)http://www.geocities.jp/nomonomoglobalwarming/Reviews/Yoshioka/Yoshioka2004.htm
これに触発されて、わたしのツイート。
吉岡さんの「イケイケ前進主義」批判ですね。わたしは、経済開発=発展と科学技術開発=発展の両方に一定の歯止めをかけないと、「敵」を圧倒するまで「軍備」を蓄積し「兵力」を増強しようとする「軍人」精神(無限の資本蓄積衝動)を払拭することができず、民主主義は実現できないと思っています。
一年前に書いた雑文から自家引用。>一般に近現代国家と科学技術専門家集団(テクノクラート)とのあいだには、中世ヨーロッパの諸国家とローマカトリック教会とのあいだの関係とかなり類似した関係がみられる。宗教に変わって科学が近現代国家の支配的なイデオロギーとなっている。
(続き)それだけではない。近現代国家は、官僚制・常備軍などの国家装置とともに、科学技術イデオロギーによって武装された学校・大学・研究機関等々の国家装置によって支えられている。まず、官僚制・常備軍などの近現代国家の暴力支配装置を維持していくために「国民的な課税システム」が構築され、税率を上げなくても税収があがるようにするために「経済システム」が構築され、その「経済システム」を支えるための「科学技術システム」が構築され、さらに「科学技術システム」やその他の国家システムを支える「国民」を創出するための広義の「教育システム」が構築される。
(続き)国家と科学(技術)を分離する(科学を完全な「私事」にする)具体的方法は、存外簡単である(逆に言うと、これまで科学がいかにどっぷりと国家に寄生してきたかがよくわかる)。金も介入政策もいらない(②があるので新自由主義の擁護ではない――ネオリベはじつは「強い国家・大きな国家」を前提している)。
①科学技術に対する、国家の財政的な支援を一切廃止する、
②知的所有権の保護を一切やめる。
以上は、例によって「極論・暴言・妄語」であるが、「本質は外していない」とおもう。あまりにラディカルな主張なので「既得権保持者」(特に大学関係者)で賛成する人は少ないとおもうが。。。http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/64986794.html
議論が一面的なのは、重々承知しております。笑
想田和弘さんのツイート
>民主主義を成熟させ、芸術を、映画を、教育を、福祉を、そして社会を活性化させるためには、とにかくみんなに暇と余裕と「場」が必要だっていう。『ヒーローを待っていても世界は変わらない』を読んで、そういう気づきがあった。これは案外大きな気づきだと思う。
これに触発されて、わたしのツイート。
(矛盾語法だが)「無限の蓄積の先」に暇と余裕と「場」が生まれるのではない。「無限の蓄積」には「先(果て)」がない。人びとを「無限の蓄積」に駆り立てるシステムこそが、暇と余裕と「場」を奪っているのだ。だから、「無限の蓄積」を「断念」することから始めなければならないのだ。
中南米諸国やギリシャやスペインでは、皮肉にも経済破局の「中から」人びとの共同性や民主主義的な創意工夫、協働の「場」が立ち上がりつつある(「破局」がいいと言っているわけではないが)。そろそろ無限の蓄積衝動と possessive individualism から脱する秋ではないか?
possessive nationalismという言葉をふと思いついた。
昨夜のツイートの補足。「軍事の論理」と「経済(国民経済、企業体)の論理」および「科学技術の論理」は存外類似している。無限の蓄積衝動と他との競争関係、そして国家との密接な結びつき等である。
(続き)明治維新以降の日本歴史の粗筋を振り返ってみれば、①体制内対抗エリートの国内的・対外的危機意識→②「維新」「革命」による新たな国家(軍・官僚制・統治機構)形成→③そのために必要な新たな財政基盤=徴税システムの確立(→民衆の抵抗)→④(徴税率強化ではなくパイをかさ上げするための)殖産興業政策→⑤経済と軍事、国内統治のためのエリート養成と科学技術振興政策→⑥国民統合のための普通教育システムの形成、メディアのコントロールという大略が見えるはずだ。
(続き)同様の事態はロシア革命後の歴史にも読み取れる、かなり普遍的な近現代国家形成のプロセスだと思われる。見えていないのか、それとも「見て見ぬふり」をしているのか、どちらかはわからないが、科学技術や大学・学校・教育システムの「本質論」的位置づけは当事者にはなかなかできないようだ。
むろん「国民の(幸福の)ための・・・(学校、教育、大学、科学技術、経済、知識人、メディア)」というイデオロギーが存在しており、かつ一定の根拠をもつことは重々承知している。しかし「・・・」は同時に狭義の「国家(統治)のため」でもある。人びとの幸福と国家統治の論理はしばしば対立する。
物事には二面性がある。その二面性をしっかり見つめなければならないということだ。
むろん、どんな人間もシステムの「外部」で生きることはできない。生きている限り、行為の面でも、思考の面でも、一面では、システムを支え続けるという「機能」を果たさざるを得ない。いきなり、まるごと、システムの外に立つことはできない。
しかし、システムの「内部」でシステムに対抗し、システムを乗りこえようと「試みる」ことはできる。ジョン・ホロウェイがうまいことを言っている。in, against, and beyond...
日本の(おそらく、日本に限らないのだろうが、わたしには全世界について語る資格はない)知識人は、inだけが異様に強く、私的個人的(もしくは、内集団的)利害に関わる事柄を除いてあまりagainstせず、beyondすることなど思いもつかないタイプが多いようだ。
システムの「中で」、システムに「対抗し」、かつ、システムを「乗り超えようと試みる」ことが大切だと思う今日この頃。
※11/1追加
MASUDA Kooitiさんのツイート
>原子力は専門家集団と利害集団の重なりが大きすぎた 。それで専門家集団の問題のたてかたが偏っていたと思う。その特殊性と隣接分野の専門家が近づかないことが強め合ったと思う。他分野の科学者が関心をもたないにもかかわらず公的科学技術資金の大きな部分が投入されたことは病的だった。
わたしのツイート。
しかしこれは専門家集団の「病理」ではなく、むしろ「平常運転」ではないだろうか。多かれ少なかれ、他の分野の専門家集団についてもあてはまるのでは?
Carnot1824さんのツイート
>原子力という専門家集団の病理なのか、隣接分野の専門家集団の病理なのか。 https://twitter.com/hirotatessai/status/263951084459028480 … https://twitter.com/masuda_ko_1/status/263822005428707328
わたしのツイート(返信)。
@Carnot_1824 吉岡さんが、彼の学問的営為の初期から(特に初期に?)主張しているように、「あらゆる」専門家集団がそもそも自らの自己増殖にストップをかけることができない一種の利害集団としての側面をもっているのでは?池田清彦氏はこれを「ガクモン不滅の法則」と皮肉っています。
Carnot1824さんのレスポンス
>@hirotatessai 自らの自己増殖にはストップをかけることができないとして、隣接分野の自己増殖にストップをかけられるかどうか?、という点はいかがでしょうか。巨額の予算が投入され、おかしな方向に進んでいるのを横目で見ながら黙認するというもの一種の病理では。
わたしの対応。
@Carnot_1824 各専門分野のセクト主義というか、「触らぬ神に祟りなし」の事なかれ主義ですね。了解です。
――「縄張り主義」は「専門主義」の同義語である。
大井さんのツイート
>「専門家に頼んでは軍縮など出来ない。それで食ってる人達なんだから、喜んで軍縮などやるはずがない。幸い加藤〔友三郎〕さんは話がわかっていたから、海軍の立場からのみ論ぜず、…もう少し高いところから見ていたから、〔ワシントン軍縮会議に〕よろしいと応諾した」(新渡戸稲造)。
これに触発されて、わたしのツイート。
いろいろ一般化できそうですね。原子力ムラ改革、選挙制度改革、議会改革、官僚制度改革、医療改革、大学改革、等々。「専門家に頼んでは××など出来ない。それで食っている人達なんだから」。この視点は凄く重要だとおもう。民主主義は「専門家に頼んでは」出来ない。そこが民主主義の神髄。
(続き)その意味では、科学も、アカデミズムも、一種の「シビリアンコントロール」、つまり、直接的統制とは言わないまでも、部外者(素人、ふつうの人びと)による間接的統制が必要です。
Carnot1824さんのツイート
>「パラダイム論的に見れば、科学者・技術者というのは軍人のようなものである。そのことを公共政策決定関係者が十分認識しなければならない。」(吉岡斉)http://www.geocities.jp/nomonomoglobalwarming/Reviews/Yoshioka/Yoshioka2004.htm
これに触発されて、わたしのツイート。
吉岡さんの「イケイケ前進主義」批判ですね。わたしは、経済開発=発展と科学技術開発=発展の両方に一定の歯止めをかけないと、「敵」を圧倒するまで「軍備」を蓄積し「兵力」を増強しようとする「軍人」精神(無限の資本蓄積衝動)を払拭することができず、民主主義は実現できないと思っています。
一年前に書いた雑文から自家引用。>一般に近現代国家と科学技術専門家集団(テクノクラート)とのあいだには、中世ヨーロッパの諸国家とローマカトリック教会とのあいだの関係とかなり類似した関係がみられる。宗教に変わって科学が近現代国家の支配的なイデオロギーとなっている。
(続き)それだけではない。近現代国家は、官僚制・常備軍などの国家装置とともに、科学技術イデオロギーによって武装された学校・大学・研究機関等々の国家装置によって支えられている。まず、官僚制・常備軍などの近現代国家の暴力支配装置を維持していくために「国民的な課税システム」が構築され、税率を上げなくても税収があがるようにするために「経済システム」が構築され、その「経済システム」を支えるための「科学技術システム」が構築され、さらに「科学技術システム」やその他の国家システムを支える「国民」を創出するための広義の「教育システム」が構築される。
(続き)国家と科学(技術)を分離する(科学を完全な「私事」にする)具体的方法は、存外簡単である(逆に言うと、これまで科学がいかにどっぷりと国家に寄生してきたかがよくわかる)。金も介入政策もいらない(②があるので新自由主義の擁護ではない――ネオリベはじつは「強い国家・大きな国家」を前提している)。
①科学技術に対する、国家の財政的な支援を一切廃止する、
②知的所有権の保護を一切やめる。
以上は、例によって「極論・暴言・妄語」であるが、「本質は外していない」とおもう。あまりにラディカルな主張なので「既得権保持者」(特に大学関係者)で賛成する人は少ないとおもうが。。。http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/64986794.html
議論が一面的なのは、重々承知しております。笑
想田和弘さんのツイート
>民主主義を成熟させ、芸術を、映画を、教育を、福祉を、そして社会を活性化させるためには、とにかくみんなに暇と余裕と「場」が必要だっていう。『ヒーローを待っていても世界は変わらない』を読んで、そういう気づきがあった。これは案外大きな気づきだと思う。
これに触発されて、わたしのツイート。
(矛盾語法だが)「無限の蓄積の先」に暇と余裕と「場」が生まれるのではない。「無限の蓄積」には「先(果て)」がない。人びとを「無限の蓄積」に駆り立てるシステムこそが、暇と余裕と「場」を奪っているのだ。だから、「無限の蓄積」を「断念」することから始めなければならないのだ。
中南米諸国やギリシャやスペインでは、皮肉にも経済破局の「中から」人びとの共同性や民主主義的な創意工夫、協働の「場」が立ち上がりつつある(「破局」がいいと言っているわけではないが)。そろそろ無限の蓄積衝動と possessive individualism から脱する秋ではないか?
possessive nationalismという言葉をふと思いついた。
昨夜のツイートの補足。「軍事の論理」と「経済(国民経済、企業体)の論理」および「科学技術の論理」は存外類似している。無限の蓄積衝動と他との競争関係、そして国家との密接な結びつき等である。
(続き)明治維新以降の日本歴史の粗筋を振り返ってみれば、①体制内対抗エリートの国内的・対外的危機意識→②「維新」「革命」による新たな国家(軍・官僚制・統治機構)形成→③そのために必要な新たな財政基盤=徴税システムの確立(→民衆の抵抗)→④(徴税率強化ではなくパイをかさ上げするための)殖産興業政策→⑤経済と軍事、国内統治のためのエリート養成と科学技術振興政策→⑥国民統合のための普通教育システムの形成、メディアのコントロールという大略が見えるはずだ。
(続き)同様の事態はロシア革命後の歴史にも読み取れる、かなり普遍的な近現代国家形成のプロセスだと思われる。見えていないのか、それとも「見て見ぬふり」をしているのか、どちらかはわからないが、科学技術や大学・学校・教育システムの「本質論」的位置づけは当事者にはなかなかできないようだ。
むろん「国民の(幸福の)ための・・・(学校、教育、大学、科学技術、経済、知識人、メディア)」というイデオロギーが存在しており、かつ一定の根拠をもつことは重々承知している。しかし「・・・」は同時に狭義の「国家(統治)のため」でもある。人びとの幸福と国家統治の論理はしばしば対立する。
物事には二面性がある。その二面性をしっかり見つめなければならないということだ。
むろん、どんな人間もシステムの「外部」で生きることはできない。生きている限り、行為の面でも、思考の面でも、一面では、システムを支え続けるという「機能」を果たさざるを得ない。いきなり、まるごと、システムの外に立つことはできない。
しかし、システムの「内部」でシステムに対抗し、システムを乗りこえようと「試みる」ことはできる。ジョン・ホロウェイがうまいことを言っている。in, against, and beyond...
日本の(おそらく、日本に限らないのだろうが、わたしには全世界について語る資格はない)知識人は、inだけが異様に強く、私的個人的(もしくは、内集団的)利害に関わる事柄を除いてあまりagainstせず、beyondすることなど思いもつかないタイプが多いようだ。
システムの「中で」、システムに「対抗し」、かつ、システムを「乗り超えようと試みる」ことが大切だと思う今日この頃。
※11/1追加
MASUDA Kooitiさんのツイート
>原子力は専門家集団と利害集団の重なりが大きすぎた 。それで専門家集団の問題のたてかたが偏っていたと思う。その特殊性と隣接分野の専門家が近づかないことが強め合ったと思う。他分野の科学者が関心をもたないにもかかわらず公的科学技術資金の大きな部分が投入されたことは病的だった。
わたしのツイート。
しかしこれは専門家集団の「病理」ではなく、むしろ「平常運転」ではないだろうか。多かれ少なかれ、他の分野の専門家集団についてもあてはまるのでは?
Carnot1824さんのツイート
>原子力という専門家集団の病理なのか、隣接分野の専門家集団の病理なのか。 https://twitter.com/hirotatessai/status/263951084459028480 … https://twitter.com/masuda_ko_1/status/263822005428707328
わたしのツイート(返信)。
@Carnot_1824 吉岡さんが、彼の学問的営為の初期から(特に初期に?)主張しているように、「あらゆる」専門家集団がそもそも自らの自己増殖にストップをかけることができない一種の利害集団としての側面をもっているのでは?池田清彦氏はこれを「ガクモン不滅の法則」と皮肉っています。
Carnot1824さんのレスポンス
>@hirotatessai 自らの自己増殖にはストップをかけることができないとして、隣接分野の自己増殖にストップをかけられるかどうか?、という点はいかがでしょうか。巨額の予算が投入され、おかしな方向に進んでいるのを横目で見ながら黙認するというもの一種の病理では。
わたしの対応。
@Carnot_1824 各専門分野のセクト主義というか、「触らぬ神に祟りなし」の事なかれ主義ですね。了解です。
――「縄張り主義」は「専門主義」の同義語である。
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